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共同ワークショップ資料集 以下は、今回の共同ワークショップのフィールドワークのテーマにそって作られた資料集です。参加に際しての事前学習にお役立て下さい。           ?「近代北海道と民衆の歴史」 北海道の歴史といえば、ややもすれば明治以来先人たちが厳しい自然と闘いながら、未開の原野に挑みあらゆる困苦をのりこえてきた開拓の歴史として美しく描かれる。しかし、実態はそのようなものではない。北海道が歩んできた近代以降の歴史とは一体どのようなものであったか。一言で表現するならば、それは近代日本における内国植民地であった。先住民族であるアイヌは「旧土人」と呼ばれて「皇国民」化のための同化政策の対象とされる一方、狩猟民族から農耕民族への転換が強制された。また開拓促進のため囚人(自由民権運動家などを含む)・タコ労働者・朝鮮人労働者といった一連の強制労働力が送りこまれている。このような近代北海道史像の素顔に接する時、そこに「内国植民地」との規定を下すことは必ずしも不当ではないだろう。         「死んでくれれば一石二鳥だ」◇開拓の礎にされた囚人 囚人労働といえば、罪をおかした人がつぐないのために働くのは当然と考える人も少なくない。しかし、はじめからその労働をあてにし、しかもいくら囚人とはいえ同じ人間であることをまったく無視して、まるで虫けらのように酷使し虐待するというのは、少なくとも近代以降においては世界史的に見てもあまり例のないことである。北海道では開拓初期の労働力として、道路開削や炭坑・鉱山の開発など、府県からの移住を促進するための労働に囚人をかりたてたのである。その酷使・虐待ぶりには目をおおいたくなるほどむごいもので、このため多くの囚人が犠牲となり、そのほとんどがいまだに葬り捨てられたままとなっている。 ●北海道での囚人労働のはじまり 明治初期、帝政ロシアが南の方へその領土を拡大しようとする動きもあって、政府は日本の最北部にある北海道をいち早く開拓し、府県からの移民を送りこむことを迫られた。そのためには、和人が移住してくるための条件整備が急務であった。しかし、道路開削や炭鉱開発に従事する労働力を確保することはそう容易なことではなかったのである。そこで、これらの労働力として使われたのが囚人である。一八七九(明治二一)年九月、当時内務大臣であった伊藤博文は太政大臣三条実美におおむね次のような内容の意見書を提出した。「長期の流刑囚徒を北海道の未開の地に送り耕作させれば、内地における負担と危険が除かれる。徒刑・流刑の囚徒の労働力を活用して北海道の開拓にあたらせ…出獄後は人口の少ない北海道に安住の地をあたえて自立更生せしめ…」と。この意見が採用されて、北海道での囚人労働が開始されるのである。北海道以外でも三池炭鉱(福岡)や別子銅山(愛媛)などの官営鉱山でも囚人が労働力として使われた。北海道ではこれらの囚人を収監するための集治監が、一八八一年の樺戸(月形町)をはじめとして空知(三笠市)、釧路(標茶町)、網走(網走市)、十勝(帯広市)と計五か所に設置され、最大時で七〇〇〇名以上の囚人が収監されていたのである。これらの囚人は重刑者であったが、殺人や強盗などの一般的な破廉恥罪を犯した者のほかに、明治前期に人権と民主主義のために全国各地で自由民権運動をたたかい、そのために捕えられた国事犯(政治犯)の人々も含まれていた。その数は現在までに判明している者だけで五六名(うち在監中の死亡者七名)に達している。また、捕えられなかったものの、自由民権運動の頂点ともいうべき秩父事件のリーダーであった井上伝蔵と飯塚森蔵が、官憲の追手をのがれて北海道で潜伏生活をしていたこともあわせて知っておく必要がある。 ● 炭鉱や鉱山での労働から道路開削へところで、たとえば幌内炭鉱-空知集治監、アトサヌプリ硫黄山-釧路集治監というように、集治監の設置場所はあらかじめ予定した労働の場所に対応させて選定された。このことからもわかるように、当初は炭鉱や鉱山あるいは一般の開拓労働が中心であった。しかし、一八八五(明治一八)年に伊藤博文の命令によって北海道を視察した内閣大書記官金子堅太郎は、巡視復命書で囚人を道路開削に従事させるよう提案した。これによって囚人は道路開削にもかりだされるようになったのである。そして図1に示したように、北海道の主要な道路が次々と囚人たちによってつくられていったのである。これらのほか、囚人たちは屯田兵屋や寺院の建築などの労働にも従事させられたのである。 ●虫けらのように扱われた囚人 また、金子は「もともと囚人は悪人だから、たとえ苦役にたえられず死んでもやむをえない。それどころか、監獄費がふえて困っているから、囚人が工事で死んでくれれば好都合だ。一般の工夫を使えば賃金は一日四〇銭かかるが、囚人ならば一八銭ですむ」という内容のことを述べている。つまり、道路開削に囚人を使えば、それによって道路はできるし、その工事で囚人が死ねば国庫支出が減るからまさに一石二鳥だというのである。いくら囚人とはいえ、このように人権がまったく無視されてもよいということは許されるべきでないが、実際の囚人労働ではこれと同様の考え方がつらぬかれて、囚人たちはまるで虫けらのごとく扱われたのである。このことが囚人労働を問題にしなければならない最大の理由である。 囚人たちは、図2に示すように鎖でつながれ、粗末な食事しか与えられず、長時間の苛酷な労働を強いられた。また病気や怪我をしても休ませてはもらえなかった。北兄峠−網走間の道路開削は一八九一(明治三四)年の六月から一二月までの半年間で完成したが、現代の機動力を駆使しても不可能といわれるほどの突貫工事であったことからも、いかに苛酷な労働であったかがうかがえる。囚人労働の苛酷な実態に関しては、釧路集治監の元看守は口をそろえて「いくら囚人でも今考えるとむごいことをしたものだ」と語っている。このため、死亡者も相当な数に達した。たとえば幌内炭鉱では、落盤やガス爆発が起きて多数の囚人が坑内にとじこめられても救助せず、そのまま坑口をふさいでしまうというようなこともあって、一八八六(明治一九年)から九七年の二一年間に、空知集治監の囚人の死亡者数は九四三名にものぼった。われわれが日常何気なく使用している道路などが、このような悲惨な労働によってつくられたことを決して忘れてはならない。           棒頭に追い回されて◇苛酷なタコ部屋労働 アイヌの地であった蝦夷地は明治になって政府・開拓使によって奪われ、開拓が進められた。原野の開墾者が屯田兵や開拓移民であるならば、鉄道・道路などを建設したタコ部屋労働者は、長い間歴史に埋もれてきただけに今日顕彰されるべき受難者である。囚人労働の廃止で本格化したタコ部屋労働は、悲惨をきわめた。一九二二(大正一一)年北海道でタコ部屋生活をした藤田留次郎は上京し、タコ部屋労働者の保護を悲願した上奏文を懐中にして皇居・二重橋に進入、爆死した(二重橋事件)。そうまでさせたタコ部屋労働の実態と、それが頑強に存続した背景を考えてみたい。 ●タコ部屋が生まれた背景 囚人労働は、一八九四(明治二七)年の廃止でその一四年間の歴史をとじた。それは、世間の厳しい批判と「北海道鉄道敷設法」(一八九六年)による労働力需要増大に到底応じきれないことによるものであった。代わって土(タコ)部屋が土建・鉱山資本などの手で本格的に展開され、各種の建設(※1)、鉱山操業が大々的に始まった。しかし、労働者は好んで北方辺境の地・北海道の山奥に来はしなかった。そこで甘言でだまし、前惜で売る周旋業が暗躍した。ポンビキといわれた周旋人は、東京などの大都市に網を張り失業・半失業者、農村出身者、苦学生らに酒と女をあたえて、本人の知らぬ間に実際の五~一〇倍の惜金を背負わせ、実経費の数倍でタコ部屋に売りとばした。高価で貴重な労働力を購入したタコ部屋では、丈夫で長持ちさせるのが労務管理の基本になるはずであった。(※1)鉄道、道路、ダム、発電所、造田、用水路、港湾、飛行場、鉱山など。 ●タコ部屋の生活と労働 起床は、ほぼ日の出とともにあるので夏はとくに早い。定山渓鉄道工事(一九一八年完成)を報じた一九一七(大正六)年六月二二日の『小樽新聞」には「朝四時の起床で四時半から労働を開始し午後七時終業」とある。体験者の記憶は正確であった。食事はきわめて粗食であった。「おかずは生味噌だけ。豊平川から汲んだ手桶の水を呑み呑み流し込んだ」(同体験談)「副食物は生味噌のみ」(同)。だから、ある工事では、栄養失調で脚気が続出し死亡者も多数出た(※2)。足が腫れ上がっても、完全に動けなくなるまで棒頭の棒でたたかれ働かされた。また、どんな場においても会話は厳禁、手紙を出すときは開封のまま幹部に預け、出してもらわねばならなかった。人格無視もはなはだしかったのである。仕事は主に土掘り、もっこかつぎ、トロッコ押しで、労働手段はスコップ、つるはし、網目などであった。前掲の『小樽新聞』              タコ部屋の平面図          によれば、休息等を考慮に入れても労働時間は夏場で約一三時間、日の出・                       日没間を基本にすると年平均一二時間位になる。今日の七〇〜八○%増である。もちろん日曜日はなかった。仕事のきびしさは、もっこかつぎの量からみても信用人夫(※3)に比べはるかにきつかった棒頭体験者賀沢昇氏はこういう。「一日の作業量が二間×三間、五分下がりの三坪(信用人夫では二坪)という決まりであった。もっこの数にして二五八杯にもなる。もっこの重さはおよそ米三俵(一八○キロ)。タコ泣かせであった」(『続・雪の墓標』一九八八年)。体積で表わせば、約一二・六メートル×五・四メートル×○・九メートルとなる。これは、一人前になった人夫に可能であったが、信用人夫のもっこの重さが約九〇キロであったから、それだけでも二倍の労働強度になったといえる。この気の遠くなる程の労働は、たとえば東京パック(※4)には到底無理な仕事であった。だから、暴力で牛馬のごとくせきたて、毎日毎日死にもの狂いで働くなかで、あるものは力をつけあるものは脱落していくのであった。へとへとになって、少しでも手を休めると棒頭の棒やスコップがとんだ。衰弱・病気で動けなくなっても作業現場に連れていかれ、部屋に休ませ医者にみせることは稀であった。虫の息になると俗に「病室」といわれた暗い部屋に移され、その後の消息は闇の中であった。警察には「トビッチョ(逃亡)した」と言えばそれまでであった。 耐えられぬ者は、死を決して逃げた。警察は、詐欺罪(前借がまだ残っている場合がほとんど)として捕らえ部屋に戻した。棒頭は逃亡防止に専念した。飯場・作業現場間の行き帰りと作業現場で鋭い目を光らせて監視した。逃げたら犬を放って追った。飯場の入口には南京錠と番犬。高所の窓に太い格子。それでも逃亡者は出た。だから、みせしめが必要であった。当時の『小樽新聞』は、定鉄工事を「さながら生地獄の如く」との大見出しで「土工夫を撲殺」、「手斧にて殴る」、「つるはしで乱打す」と報じた(同年八月二一日付)。世間から「地獄部屋」、「監獄部屋」と称されたのも、実態(※5)をよく表わしていたのであった。(※2)一九四三年に完成の名雨線・雨竜ダム工事犠牲者一〇七名中二五.二%が衝心生脚気によるとあるが、死因には疑問がもたれている。(※3)信用部屋の人夫のこと。自発的に労働者になったため前借もなく、労働時間以外自由を拘束されることはない。(※4)ハイカラともいわれ、大都市からきたあまり力仕事に向かない労働者。(※5)時期、場所、飯場、幹部の個人的性質などによって異なる。 ●国家と資本のために それにしても、なぜ工事は急がれたのであろうか。近代日本の歴史は、植民地の獲得をめざして近隣諸国を侵略した歴史であった。それは中国・朝鮮を標的にし、先進帝国主義諸国と競合したので、資本主義の遅れた日本にとっては何事も急務とされた。北海道の開発も軍事的・国家的要求をおび急がれた。また、それと関連しながら、一九〇〇年代に入ると財閥を中心とした独占資本も、安あがりで大量の資源を求めて北海道進出に乗り出した。国家と資本は軍事的・産業的基盤づくりを急ぎ、元請の大手土建資本に「より早く安上がりの仕事」を求め、元請は下請に下請は孫請に同じことを求め、ピンハネが必要悪として公然化した。この要求は、おしまいのタコ部屋が工事予定価格(必要経費)のおよそ三割五分で請け負ってくれたから実現できたのであった。そこで、タコ部屋が倒産を免れ、並の利益を得るにはすべてを切りつめ、労働者を激しく働かせる以外になかった。極度な労働搾取・収奪はここに起因し、残虐な実態を生みだした。その意味で、組長や棒頭らも被害者であったといえる。タコ部屋の存在は国家・資本の要求を満たし、国家に貢献するのみならず、今や名だたる大手土建資本を育て、財閥資本も「自らの手を汚さずにタコ労働収奪の分配に与っていた」(小池喜孝「囚人・タコ労働者」)のである。誰のための開発であったか明らかであった。 ●タコ部屋廃止の事情 タコ部屋はおよそ半世紀続いた。なぜ、もっと早く廃止されなかったのであろうか。囚人労働にあったようにタコ部屋にも批判があり、改善運動もあった。それらにおされて道庁と政府は、一九一四(大正三)年から二五年にかけて募集・使用の両面に法的規制(改善)を加えた。政府のそれは二重橋事件を契機としていた。しかし、国家と資本がタコ部屋を必要悪としていたから、廃止に本気でとりくむことはありえなかった。それどころか警察が元請側に立っていたから、その改善すら期待できなかった。とりわけ一九二二年の請願巡査制度(※6)が実施されてからは、改善への道は断たれた。 タコ部屋廃止は、国民に基本的人権が保障され人間の尊厳に基づいた人権意識が国民的に形成され、大きな廃止運動となった時のみ可能性があった。天皇を項点とした差別意識と臣民精神の戦前では、それは不可能なことであった。戦後米軍が進駐し、「タコ部屋中止命令」を一九四六(昭和二一)年八月に出した。それによって周旋業者、土建業者は検挙され処罰されたが、そのあともタコ部屋は一部にひそかに存在していた。(※6)二〇〇人以上の工事に元請費用で巡査一人を現場に設置。本書に事件などの届出義務がない。                 「生きて再び帰れぬ地」北海道へ◇朝鮮人の強制連行 中国への侵略戦争が長びくにつれ、戦争に必要な物資や労働力を総動員するための「国家総動員法」が一九三八(昭和二二)年四月に公布され、労務関係勅令が矢継ぎ早に発動された。翌年の一九三九年七月八日には「国民徴用令」が公布され、大々的な動員がはじまった。植民地朝鮮では、民族的な抵抗になることを恐れ、最初のうちは労働者を「募集」する形式をとった。しかし一九四二年以降は「官斡旋」と称して面(村役場)に人集めをさせ、強制的に連行した。また一九四二年一一月二七日の閣議で中国人を日本本土に移入することを決定し、炭鉱、鉱山、土建業などに供給した。 ●祖国を奪われた朝鮮人 一九一〇(明治四三)年八月、日本政府は「韓国併合」をおしつけ、朝鮮民族の祖国を奪った。植民地朝鮮を支配する統治機構として、天皇直属の朝鮮総督府を設立し、朝鮮総督を置いた。その後総督府は朝鮮民族から土地を奪い、米を奪い、言葉と文字と教育を奪い、一九四〇年には「創氏改名」(名前を日本式に改めること)まで強制するに至った。そしてやむにやまれず抗日・独立の運動に立ちあがった人々にはムチの刑など、血の弾圧を加えた。土地をとられ生活の手段をなくした人々は、生きる道を求めて、シベリアへ、中国へ、日本へと流れていった。 日中戦争開始二年後の一九三九一昭和一四)年、日本政府は朝鮮人労働者を重要産業に「移入」するという「労務動員計画」を決定した。朝鮮人労働者を必要とする企業はすぐさま朝鮮にのりこんで、権力をバックにした「募集」をはじめたのである。それもはじめは個別に申請していたが、効率的に、大がかりにやるのには、団体申請をしたほうがよいと、北海道では道庁がイニシアチブをとって需要者数をとりまとめる決定をしたのである。実際の人集めは各企業が現地に労務を派遣して行なった。その人集めにあたる労務のことを、北炭では補導員と呼んでいた。「納得の上で応募させていたのではその予定数には仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が、深夜や早暁、突如男子のある家の寝込みを襲い、或いは田畑で働いている最中にトラックをまわして何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して北海道や九州の炭鉱へ送りこみ、その責をはたすという乱暴なことをした。(鎌田沢一郎『朝鮮新話』)これが「完全供出」という名の人狩りのやり方であった。このようにして連行された人たちは、その多くの部分が石炭山に供給され、危険度の高い坑内労働に入れられた。坑内では日本人が五五%にたいし朝鮮人四五%、抗外では日本人九〇%、朝鮮人一〇%となっている。 ●「うさぎ狩り作戦」 一九三九(昭和一四)年の朝鮮人につづいて四二年一一月には、閣議で「華人労務者内地移入二関スル件」が決定された。しかし実際には「労務管理、治安保持」の点から日本国内への「移入」は見送られていたが、戦争の拡大で国内の、とくに重労働部門の労働力の不足が著しかった。そのため財界や企業からの要望で、港湾の荷役と炭鉱で「試験移入」がなされたあと、一九四四年にあらためて「華人労務者移入ノ促進二関スル件」が決定され、強制連行は本格化したのである。その人狩り作戦は華北に侵略していた各師団が方面軍の命令で行なった。奴隷狩りにも等しい方法で連行され、炭鉱などの危険な生産現場に投入された朝鮮人や中国人たちには、棒やスコップでなぐられながらの酷使労働が課された。落盤やガス爆発の危険が絶えずつきまとう坑内に多く配置され、一日一五、六時間も働かされた。九人で五〇台の貨車に石炭を積みこむことをノルマとして課されたところもあった。食べ物は豆やトウモロコシまじりの飯が丼に一杯、垢かずはたくあんの漬物二きれと実の入ってない味噌汁。あまりの粗食に栄養失調で倒れるものが続出した。ひもじさに耐えかねて、土のついたいもや人参などを食べたり、雑草や石炭まで食べるものがいた。ふとんは汚れて臭く、衣服は南京袋の生地、はきものがわらじという所も多かった。 ●山野をさまよい一三年 中国山東省の農民劉連仁は、結婚して間もない一九四四(昭和一九)年九月に日本軍に拉致され、二〇〇名の仲間とともに北海道沼田町の昭和鉱業所に強制連行された。命をつなぐにやっとの粗食ではげしい労働を強いられた。彼は翌年七月三〇日、仲間四人と脱走した(その後仲間とはぐれ一人になる)。それから半月後の日本の敗戦を知らずに、一三年間、北海道の山野をさまよい歩いて奇跡的に生きのびた。そして一九五八年二月八日、当別町の山中で発見されたときは、衰弱して逃げる力もなくしていた。            先住民族アイヌと北海道◇アイヌモシリ侵略史 ●アイヌとは 「アイヌ」とは、アイヌ語で「人」「男」「夫」などの意味を表す言葉である。アイヌの人々は、もとは日本列島から樺太まで広範囲に活動していた。北海道内はもちろん、日本の各地にアイヌ語由来の地名を見ることができる(※1)。しかし、アイヌの人々は民族的には異なった集団である「和人」(大和民族。現在の日本人多数派の祖先)の侵入に押され、しだいに北海道以北に追い込まれていった。 こうして和人との関係の中から、「アイヌ」は自分たちの民族を表す言葉としても使われるようになった。なおアイヌ語では和人をシサム=「自分たちの隣人」という。よく使われる「シャモ」は一種の侮蔑語で、本来のアイヌ語では用いられないものだ。どうしてこの「汚い言葉」とされる「シャモ」が使われてしまうのか。そして「アイヌ」が差別性を帯びた言葉として、アイヌの人々から一時期忌避されたのはどうしてなのか。その答えは、近世・近代において日本が「蝦夷地」を「北海道」としていった歴史、アイヌから見ればシャモのアイヌモシリ(※2)侵略史の中にある。(※1)例えぱ四国の四万十川は、「最も美しい」という意味のアイヌ語「シムマタ」からき.ているとも言われている。(※2)北海道はアイヌ語では「アイヌモシリ」という。これは「人問の静かな大地」という意味である。 ●アイヌモシリ侵略史(1)―近代以前 戦国時代に日本から蝦夷地へ渡る武士集団が現れてきた。彼らを経済的に支えたのが蝦夷地と日本の交易であり、両者にとってその重要性が高まるにつれて利害対立も激しくなり、数々の戦いにつながっていった。 蝦夷地を和人が支配するに至る、およそ四世紀にわたる戦い(アイヌモシリ侵略史)の中で、大きな歴史的転換となったものが三つあると言われている。一四五六年、箱館近くの村で、刃物の切れ味をめぐるトラブルからアイヌの若者が和人鍛冶屋に刺されて死んだことが原因となり、コシャマインを指導者として道南のアイヌが一斉に立ち上がった。一四五七年、コシャマイン率いるアイヌ軍は、函館をはじめとした道南各地を襲い、そのほとんどを陥落させたが、松前藩の始祖とされる武田信広の策略でコシャマインは討たれてしまい、戦いは和人側の勝利に帰するところとなる(コシャマインの戦い)。この武田信広は蛎崎氏の養子となり、蛎崎氏は和人とアイヌ間、ときにはアイヌ勢力間の対立を利用しながら、しだいに道南に勢力を拡大していく。その子孫がやがて松前氏を名乗り、道南を松前藩として支配していくことになる。 一七世紀ごろになると、松前藩は巧妙に貿易利益を上げ、アイヌ収奪を強めていった。シベチャリ・アイヌのリーダーであるシャクシャインの呼びかけにこたえたアイヌたちは、一六六九年、一斉に立ち上がり、和人を襲った。戦いはアイヌに有利に進んだが、徳川幕席が津軽藩に命じて出兵させた鉄砲隊の威力と、シャクシャインが騙し討ちにあって殺されたことにより、アイヌは破れ、以前にもまして和人への従属がすすむことになる(シャクシャインの戦い)。和人はさらに東へとすすみ、三番目の戦いは、一七八九年、クナシリ(国後)・メナシ(目梨)でおこったが制圧され、指導者は捕えられて処刑された。これ以後、アイヌの武力低抗はほぼ終息することとなる(クナシリ・メナシの戦い)。一九世紀に入るとまもなく、江戸幕府は対ロシア防衛からも北海道を直轄地とし、アイヌとの交易も改善しようとする。しかし幕末の混乱の中で、アイヌ政策も朝令暮改を繰り返すうちに、幕藩体制自体が崩壊することとなった。 ●アイヌモシリ侵略史(2)―近代 一八六九(明治二)年、明治新政府は「開拓使」を設置するとともに、「蝦夷地」を「北海道」と「改称」する。一八七一年には戸籍法を制定しアイヌを「平民」に編入、七五年には最初の屯田兵が入植、アイヌモシリを勝手に領土とし植民をすすめる一方、アイヌには日本人としての同化を強制したのであった。独自の風習や狩猟は禁止され、日本語・日本名が強制された(※3)。こうして、あっというまにアイヌモシリは北海道にされてしまい、本土からの「開拓者」がアイヌ人口を圧倒的に上回るようになった。アイヌの人々は本土から持ち込まれた病気などにより、むしろ多くの人々が亡くなった。 このように、日本の近代史の中で北海道開拓史と呼ばれている歴史は、アイヌから見ればアイヌモシリ侵略史である。アイヌとして初めて国会議員となった萱野茂さんは、これを「この島を日本国へ売った憶えも貸した憶えもない」と表現している。(※3)一八九九年の「北海道旧土人保護法」は、恩恵的であれアイヌに土地を与え農民化を促すとされたが、本土からの「開拓者」や資本に次々に収奪されてしまい、一九七四・七五年の調査では相続により受け継がれてきた給与地は当初の一七%にも達しなかった。 参考文献『北海道の歴史60話』森岡武雄・木村尚俊・小林真人・田端宏・桑原真人・小野寺正巳編著  三省堂 九六年『北海道歴史散歩』北海道歴史教育者協議会編 草土文化 八三年『近代北海道史研究序説』桑原真人著 北海道大学図書刊行会 八二年『国際化時代の人権入門』神奈川人権センター編 明石書店 九七年 MEMO ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――                 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――           ?「在日朝鮮人の形成史と現在」 ●解放前の人口動態 いうまでもなく在日朝鮮人は、朝鮮にたいする日本の植民地支配の産物である。日本側の統計によれば、「韓国併合」前年である一九〇九年の在日朝鮮人は七九〇人になっているが、それはその後における日本労働市場の底辺層を形成する在日朝鮮人とは質的に異なる性格のものであった。というのは、日本では一八九九年七月二八日に勅令三五二号をもって、朝鮮人および中国人労働者の移住を原則的に許可しない方針であったから、先の在日朝鮮人はそのほとんどが留学生およびその他であったといえる。一九一〇年八月二二日の「韓国併合」によって、「帝国臣民」となった朝鮮人にはさきの勅令が適用されなくなった。低廉な労動力としての在日朝鮮人の渡航は、第一次大戦期(一九一四〜一八年)における戦争景気によって、日本資本主義がそれを要求したときからであった。最初は労働ブローカーが甘言利説をもって朝鮮各地で労働者を募集し、しだいにそれに加えて縁故関係による渡航者もあって、在日朝鮮人数は急速に増加するに至った。とりわけ日中戦争および太平洋戦争期には、自然流入による朝鮮人だけでは日本本土における労働力の不足を補えなくなり、強制連行まではじめた。そして、一九四五年八月の終戦当時には、在日朝鮮人数はじつに二〇〇万人を超えるに至ったのである。 まさしく一九一一年に二、五七七人であった在日朝鮮人が、一九四五年五月推定で二一〇万人に達したこの事実こそ、それが朝鮮に対する日本の植民地支配の産物であったことを物語っている。同期問における在日朝鮮人の人口動態は表1のとおりである。表1でみられるように、一九一五年に約四、〇〇〇人であった在日朝鮮人数は、一九二〇年代に入って急増し、一九二四年には一二万人を超えた。一九二五年から渡航阻止制度を実施し、地元朝鮮において渡航希望者を制限する対策をとったが、一九三〇年にはほぼ三〇万人に達し、さらに一九三八年にはほぼ八〇万人に達している。ところが、戦時下の労働力不足を補うために従来の渡航阻止制度を廃止し、強制連行がはじまる一九三九年からは、毎年の人口増加はじつに平均二〇万人ずつであり、民族の大移動といえるような急増ぶりである。 つぎに在日朝鮮人の渡航過程を、一九一五年から一九三八年までの段階と、一九三九年以降の設階とに分けて概観することにしたい。 ●農民層の没落による日本渡航 在日朝鮮人が低廉な労動力として、日本の労働市場の底辺に移動してくる一九三八年までの段階では、たしかに自主渡航の形態をとっている。しかしかれらを朝鮮社会から流出させた根本原因は、日本の植民地政策、とりわけそれによる農村経済の破綻である。他方日本資本主義にとっても、植民地労動力の流入は好ましいものであった。なぜなら戦前においては低賃金国として世界的に著名であった日本資本主義にとって、さらにそれよりも低廉で劣悪な労働条件をおしつけうる植民地労動力が存在することは、超過利潤をうるために必要であった。その反面かれらは、日本労働運動をはじめとする社会運動との結合をおそれた。 日本に渡航する朝鮮人の、朝鮮での前職をみれば、その大多数が農業である。たとえば一九三五年の東京府の調査によれば、世帯持ちの九〇・七四%、単独者の七九・七三%が、朝鮮では農業に従事していた。このような傾向は、他の都市での調査でもほぼ共通している。そして東京府でのさきの調査によれば、世帯持ちの農業出身者九〇・七四%のうち、自作農出身が七七・○八%、小作農出身が一六・六五%、果樹業が〇・五%、また単独者の農業出身者七九・七三%のうち、自作農出身が六三・○八%、小作農出身が一六・六五%となっている。 つまり在日朝鮮人の大多数が没落した農民層であり、そのなかで自作農からの没落者が主で、小作農からの没落者が従となっている。これはたとえば朝鮮国内で都市周辺の貧民層(土幕民という)が、小作農および雇農が主で、自作農がほとんどないのと対照的である。ともあれ朝鮮都市周辺に群がる貧民層であれ、日本に流出する渡航者であれ、それが朝鮮における農村経済の破綻によって排出された過剰人□であることに変わりはない。 よくいわれているように、日本は「韓国併合」をしてから、植民地政策の基礎確立のために、最初に着手した大規模な事業は、一九一〇年から一八年にわたる土地調査事業であった。その結果、一九一八年現在の土地所有関係は、全農家戸数の三・一%にすぎない地主が(巨大地主は日本人に多く、中小地主は朝鮮人に多い)、総耕地面積の五〇・四%を所有して、収穫の五〜七割の高率の小作料に寄生していた。反面、全農家戸数の七七・三%を占める農民層が、小作農および自作農兼小作農として地主の搾取対象となつていた。自作農は全農家戸数の一九・六%であった。当時近代工業が発達していなかった朝鮮は、全人口の八割が農民であり、そのうちの七七%以上を占める小作農および自作農兼小作農は、高率の小作料と高利債によってしばられ、自作農も経営上の赤字によって、しだいに転落する階層であった。表2はそのことをよく示している。 表2は年をおって自作農および自作農兼小作農が没落して漸減し、それとは対照的に小作農が漸増する傾向を示しているが、これは日本の植民地支配下において、農村における中間層がしだいに没落し、地主と小作農の両極へ分化していった傾向を物語るものである。ではこのような過剰人口を吸収するような工業およびサービス工業が存在したであろうか。たしかに植民地工業は、そのほとんどが日本人資本によってしだいに成長しら。しかし本来朝鮮は、日本資本主義のための原料供給地、商品販売地として位置づけられていたために、その発展はきわめて制約されていた。とうてい農村経済の破綻によって排出される莫大な過剰人口を吸収しうるものではなかった。 したがって農村からの過剰人口は、その一部は労働者として吸収されたとしても、その大部分は農村や都市周辺に停滞して貧民層を形成し、または北方大陸や日本に流出する結果となった。解放当時朝鮮人口はほぼ三、○○○万人であったが、そのうち朝鮮本土には二、五〇〇万人がおり、他の五○○万人は海外に流出した人口であった。本来祖先の墳墓の地への執着が強いといわれる朝鮮人が、日本の植民地支配期にじつに六人に一人は海外に流出していたのである。 論者によっては、一九三八年までの在日朝鮮人を、「白由意思」による移住というが、実は植民地政策が生みだした問接的強制による渡航であったのである。 ●戦時体制下の強制連行 一九三七年七月七日に日中戦争が起こり、さらに一九四一年一二月八日には太平洋戦争へと拡大した。日本本土内の工場、鉱山、農村から中堅的労動力が軍事力として動員されるにしたがって、戦時産業の各分野に、深刻な労動力不足が生じた。日本政府は一九三八年五月、戦時統制の根本法規として国家総動員を施行し、それにもとづいて三九年七月には、労務動員計画を発表した。 この計画にもとづいた三九年七月の内務・厚生両次官通牒「朝鮮労務者内地移住二関スル件」にしたがって、朝鮮人の強制連行がはじまった。最近は「強制連行」という用語が一般化しているが、それは一九三九〜四一年の「募集」方式、一九四二〜四三年の「官斡旋」方式、一九四四〜四五年の「徴用」方式を包括するものである。 どうして「募集」方式が強制連行といえるのか。朝鮮総督府は日本本土の各事業所からの申請をうけて各道(日本の県に相当)に募集人員を割当て、募集許可書をうけた各事業所はその割当て地域に募集人を派遣するが、かれらは割当てられた各道の市、郡、面におりていって、それら行政機関の労務係員および警察官を酒、女、金で供応し、その行政力および警察力とタイアップして各里村に人員を割当て、募集するものである。もちろん自発的な応募があろうはずはなく、予定数の労務者を確保するために強制力がともなうのは必然である。 しかしこのような「募集」方式では予定の労務者を確保することは困難なので、一九四二年二月の閣議決定「半島人労務者活用二関スル方策」と、それにともなう朝鮮総督府の「鮮人内地移入斡旋要綱」にもとづいて、従来の事業所による直接募集から、総督府官権の直接的介入による 「官斡旋」方式によって、逃亡を防ぐための「隊組織による移入」に転換したのである。それがさらに一九四四年からは「徴用」方式に発展し、より強力な強制連行が実施されるようになった。 つまり一九三八年までの在日朝鮮人の形成が、朝鮮農村の経済的破綻によるものであるとするならば、一九三九年以降のそれは、それに加えて、国家権力の介入による直接的・暴力的連行によるものといえるであろう。 ●在日外国人の中の韓国・朝鮮人 戦前の在日朝鮮人は、二一〇万人以上に達した。戦後なだれを打って、かれらは帰国を急いだ。その帰国者数はどの位であろうか。 一九四六年三月に、マッカーサーの司令部は朝鮮人や台湾人の計画輸送のために、日本厚生省にその希望者を登録させた。その結果によると、在日朝鮮人総数六四万七、〇〇六人のうち、帰国希望者はその七九%に当たる五一万四、〇六〇人となっている(うち朝鮮民主主義人民共和国帰国希望者は九、七〇一人)。つまり一九四五年八月一五日の日本敗戦から、翌年の三月まで一四〇万人余りが帰国したことになる。ところが四六年四月からはじまった計画輸送者は八万二、九〇〇人にとどまり、帰国者の足はにぶってしまった。その理由には二つある。 その一つは、帰国者に一人当たり千円以上の持ち出しを禁止したことである。故郷に生活基盤のある人はともかく、在日年数が長い人ほどそれがなく、帰国しても生活の見通しがたたなくなった。いったん帰国してのち、逆流入する現象さえ見られた(これを「密航者」扱いして取り締まった)。 他の一つは在日朝鮮人の九八%が、慶尚南道、慶尚北道、済州道、全羅南道をはじめ南朝鮮出身である。日本の植民地支配から解放された朝鮮は三八度線で南北に分断されたうえ、南朝鮮ではアメリカ軍政が布かれていた。そのなかで政治的、社会的混乱がつづき、さらに一九五〇年六月二五日からは朝鮮戦争となった。帰国を予定していたかれらは、すでに日本の職場からは放遂されており、当分の間祖国の情勢を観望しながら、日本での生活方法を考えはじめた。 一九五〇年(昭和二五)の在日韓国・朝鮮人総数は五九万八、六九六人となっている。これがこんにちの在日韓国・朝鮮人の原点であるが、その後かれらのなかから、一九五九年一二月以来一〇万人足らずが北朝鮮に帰国し、また一五万人余りが、韓国・朝鮮国籍をはなれて日本人に帰化した。 一九九〇年六月末に、在日外国人数がはじめて百万人を突破しているが、そのうち在日韓国・朝鮮人は、表3でみるように六六・九%に当たる六八万六、二三七人に達している。 いうまでもなく在日韓国・朝鮮人は、戦前の植民地期に渡航してきた第一世およびその子孫からなる。ところが戦後四五年余りが経過するなかで、朝鮮生まれの第一世代は一割足らずで、しかも老齢化し、日本生まれの世代が九割以上を占め、在日韓国・朝鮮人杜会の中堅層を形成するに至った。二一世紀になると、日本で生まれ、育った世代が、一〇〇%に達するであろう。 このような世代の交替にともなって、国際結婚の比率が増えている。一九七五年までは在日韓国・朝鮮人同士の婚姻件数が過半数を占めたが(一九七五年は五〇・二%)、それ以来国際結婚の件数が増えつづけ、一九八五年には七一・六%に達している。このことは何を物語るのか。在日韓国・朝鮮人は、一九五二年四月のサンフランシスコ講和条約を目前にして、日本政府が一方的に日本国籍を剥奪した結果、たとえ日本で生まれた第二世であろうと、第三世であろうとにかわりなく、外国人として在留している。にもかかわらずかれらは、一般外国人とはその歴史的背景が異るばかりでなく、すでに日本杜会に深く根をおろして定住化していることを示す。在日外国人の法的地位や杜会的処遇を考える場合、一般外国人と定住外国人とを区別して、対処しなければならないだろう。日本人が定住外国人と共に生きること―これは日本杜会の国際化をはかるバロメーターとなろう。                   表3 主要国籍別・主要都道府県別外国人登録数 参考文献『朝鮮侵略と強制連行』大阪人権歴史資料館編 解放出版社 九二年                         ?「矢臼別演習場と日米軍事問題」 ● 矢臼別演習場 面積一七一九二ヘクタール(南北九キロ、東西三一キロ)におよぶ、自衛隊最大の演習場。面積比において、全自衛隊演習場の二〇・八%をしめる。 ●海兵隊移転演習と矢臼別 SACO最終報告(一九九六年一二月二日)において、日米両政府は沖縄の米軍基地の「整理、統合、縮小」を打ち出した。だがそれは「基地の撤去」を意味するものではない。むしろ、基地機能を維持し、さらに強化するための再編と見るべきであろう。施設用地の返還、演習の移転にはほとんど代替用地の確保が条件とされており、しかもその多くが沖縄内部への移転であった。普天間基地返還の条件であるキャンプシュワブ沖の海上基地建設問題がそれを象徴している。それゆえSACO最終報告で打ち出された数々の施設の土地返還は、今日にいたってもほとんど実現を見ていない。 しかしその中にあって、ほぼ唯一といっていい「成果」がある。海兵隊による「県」道一〇四号越え実弾砲撃演習の移転である。この演習は生活道路を封鎖して一五五ミリ榴弾砲を恩納岳の山肌に打ち込むというものである。騒音や道路封鎖により住民が不利益を受けるのはもちろんだが、問題はそれだけではない。恩納岳が実弾を打ち込まれはげ山になってしまい、地元住民の貴重な水源地を破壊していたのである。水の確保がむずかしい狭い島でのことだから事態は深刻だ。さらに山から赤土が流出し、河口のさんご礁をも破壊していたのである。この演習の移転先が、大分県の日出生台、、静岡県の東富士、山梨県の北富士、宮城県の王城寺原、そして北海道の矢臼別である。 ※SACOとは 正式名称は「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会」(Special Action Comittie on Okinawa)。米兵による少女暴行事件をきっかけとした沖縄の反基地闘争の爆発と、沖縄の知事による、いわゆる代理署名拒否にあわてた日米両政府が、在沖米軍基地の整理・縮小問題を協議するため、一九九五年一一月、一年間の期限つきで日米安全保障協議委員会の下に設置した。日本側は外務省、防衛庁の局長、米側は国務省、国防省の次官補が正式メンバー。この下に審議官、次官補代理による作業部会があり、非公式協議を含め一年間で二〇数回の会合を開いた。 ※沖縄の米軍基地と土地問題 日本における米軍基地の約七五%(面積比)が集中する沖縄。ヤマトの米軍基地のほとんどが国有地であるのに対して、沖縄のそれはほとんどが民有地である。これは、沖縄の米軍基地が、沖縄戦後、住民が米軍の収容所にいるあいだに建設されたり、軍政下において「銃剣とブルドーザー」で住民を追いたてて建設されたものだからである。現在は日本政府が地主から土地を借り上げ、それを米軍に提供するという形をとっている。契約地主の数は自衛隊基地のものも含め九四年度末で三三七二四人(那覇防衛施設局まとめ)。 ●より激しさを増した演習 M一九八型一五五ミリりゅう弾砲の最大射程距離は二四キロ。砲撃演習をするには極端に狭いと指摘されていたキャンプ・ハンセンでは砲座から着弾地まで四〜六キロだった。矢臼別演習場では射程距離が七〜一四キロに延びたといわれる。 また海兵隊は、一番最初に敵前上陸して、味方の上陸拠点を確保する突撃部隊であるから、演習場への移動そのものが訓練の一環である。つまり演習場が遠隔地に移転したことによって、移動―攻撃―撤退までの一貫した、より実践的な訓練が可能になったのである。沖縄に駐留する第一二海兵連隊のケリー司令官は、次のように述べている。 「・・・全ての(移転先の)演習場で異なった素晴らしいメリットがあった。矢臼別演習場は広かったので、噴進弾という通常よりも射程が長い弾を使用し、最大射程距離で訓練することができた。 ・・・(中略)・・・ 沖縄では実施できなかった様々な訓練を移転先で行うことが可能になり、大変感謝している。」  さらに、この移転演習では、海兵隊の空輸には自衛隊機や国内外の民間機が使われ、武器や弾薬類の運搬は民間船舶が活用された。民間企業や地方自治体の戦争協力を定めた新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)の地ならしと論議を呼んだ(ガイドライン関連法の成立は一九九九年七月)。予算はすべて日本政府持ちである。 「沖縄の痛みを分かち合う」とされたヤマトへの移転・分散は「キャンプ・ハンセンで実施されている訓練と同質・同量」が公約だった。しかし矢臼別演習場で一九九七年九月一九日から十日間実施された通算二回目のヤマト移転演習では、最初の山梨県・北富士演習場に比べ、砲撃は本格化した。 矢臼別の団体が演習の十日間、午前八時半から午後十時まで砲声をすべてカウントした。その結果、実弾砲撃数は二八〇一発に上った。キャンプ・ハンセンでも実施していなかった夜間砲撃も計二四二発が確認された。 沖縄「県」基地対策室のまとめによると、廃止されるまでの五年間の「県」道一〇四号越え実弾砲撃演習は、一九九六年三四五五発、九五年二七八四発、九四年三六〇〇発、九三年五六〇六発、九二年六四六八発で推移している。矢臼別での実績は、九五年の年間砲撃数を上回った。いかに撃ちまくったかが分かる。 「沖縄での訓練と同質・同量」と言いながら、夜間訓練の他、NBC(核・生物・化学兵器)攻撃訓練、外出も自由化。住民の不安は大きい。また、米軍施設建設、更に防音対策や基地交付金など、巨額の税金が注ぎ込まれている。         ?「歴史教科書問題 何が問われているのか」 ●二〇〇一年五月九日「沖縄タイムス」社説  円筒は、真横から見ると長方形に見え、真上から見ると円に見える。モノは、見る位置によって違って見えるだけでなく、その人のその時の気分によっても違って見える。コップに水が半分しか入っていないとき、「まだ半分も残っている」と安心することもあれば、「もう半分しか残っていない」と不安に襲われることもある。歴史をどう解釈するかという問題も、これと似たところがある。その人の見る位置や立場によって、歴史の見方も変わらざるを得ない。歴史認識の多様性は避けられず、それが保障されることが自由な社会の条件である。 しかし、歴史の教科書や公的な歴史記述は、共通の基盤を前提にした上での多様性でなければならないと思う。共通の基盤とは、学問研究の長年の成果をきちんと踏まえること。人権を尊び、独り善がりにならず、国際協調の精神に立つこと、などである。 韓国政府は八日、検定に合格した歴史教科書の中に歴史的事実のわい曲があるとして、日本政府に再修正を求めた。再修正を求めているのは計三十五項目。このうち二十五項目は、「新しい歴史教科書をつくる会」が主導した中学用歴史教科書だという。 一九八二年の歴史教科書問題をきっかけに、政府は、教科書検定基準の中に「近隣諸国条項」を設けた。同条項は「国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」をうたっている。検定官は「近隣諸国条項」に対して、どのような認識を持っていたのだろうか。「近隣諸国条項」を設けていながら、このような結果を招いたこと自体、政府のこの問題に対する認識の甘さを露呈したものだと言わざるを得ない。「近隣諸国条項」が意味するものは、加害の事実を直視し、被害を受けた側の視点を歴史記述に組み込むことだと、私たちは理解している。 懸念されるのは、韓国政府の再修正要求に対して「主権侵害」「越権行為」との感情的な批判が広がり、日韓関係が悪化していくことである。「ナショナリズムの応酬」ほど危険なものはない。日韓の対話を成立させるためには、韓国政府の主張に謙虚に耳を傾け、事実の誤りがあれば自主的に訂正し、教科書採択の際に「近隣諸国条項」を生かすことだと思う。日韓両国による教科書の共同研究に本格的に取り組むべき時期がきているのではないか。 ●二〇〇一年七月九日「朝日新聞」掲載「韓中要求、大半退ける 歴史教科書『誤り2カ所』」 韓昇洙・外交通商相に日本政府の回答を伝達しに訪れた寺田輝介・駐韓大使(左)=9日、韓国外交通商省で 歴史教科書に対する韓国、中国政府からの修正要求について、文部科学省は9日、専門家による内容の検討結果をまとめ、外務省を通じ両国に回答した。指摘通り「誤り」と認めたのは韓国が修正を求めた35項目のうち2カ所。中国の全要求を含め、ほとんどの指摘を「学説状況に照らして明白な誤りとは言えない」などと退けた。近現代史部分はまったく応じておらず、韓国、中国とも強く反発している。 両国の修正要求が集中した「新しい歴史教科書をつくる会」主導の扶桑社版で、文科省が誤りと認めたのは、韓国が指摘した「大和朝廷の軍勢は、百済や新羅を助けて、高句麗とはげしく戦った」とした記述。同書が根拠として挙げた広開土王碑文には、逆に新羅が高句麗に帰すると明記されている、とした。 また、朝鮮が新石器時代から小国分立に移行した時期を紀元前400年ごろとした大阪書籍版の年表も誤りと認めた。 このほか韓国が扶桑社版で行った24項目、他7社版で9項目の要求、中国が行った扶桑社版に対する8項目の要求はすべて退けられた。  韓国は、扶桑社版の「日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている」など朝鮮半島脅威説に立った記述が、日清、日露戦争を合理化すると指摘。これに対し、文科省は「当時、日本の指導者には欧米列強が朝鮮半島に地歩を確立すると独立を脅かされかねないとの認識があった」と分析した。韓国併合に英米ロ3国が「異議を唱えなかった」とした扶桑社版の記述も、日本の学界で広く認められているとするなど、「明白な誤りとは言えず、制度上、訂正を求めることはできない」という結論が並んだ。 また、扶桑社版などが慰安婦や皇民化政策の具体的内容に触れていないという指摘についても、どの内容を盛り込むかは執筆者の判断に任せられ、「制度上、記述を求めることはできない」などとした。  文科省は5月、韓国と中国からの修正要求を受け、教科書検定調査審議会の委員に加え、朝鮮古代史や中国史などの学者14人に意見を聞くなど、計18人の専門家で両国の要求内容を検討した。 明白な誤りと認定した2カ所のうち、扶桑社版はすでに自主訂正が申請されており、大阪書籍には検討結果を知らせ自主訂正を求めるとした。  韓国の指摘で誤りが見つかったことについて、文科省は「検定の信頼の問題にもつながり、おわび申し上げたい」とした。今後は、近隣諸国との関係に万全を期すため、教科書検定調査審議会に新たに朝鮮史、中国史の専門家各1人を加え、誤りの指摘など意見を受け付ける窓口を省内に設けたいとしている。韓国側が提唱している歴史教科書の共同研究については「考えはない」とした。 MEMO ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――                                 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――               これまでの共同ワークショップ ‘97夏の日韓共同ワークショップ −和解と共同 Big-Town朱鞠内−期間 1997年7月30日〜8月7日場所 北海道雨竜郡幌加内町朱鞠内(会場:旧光顕寺 発掘現場:朱鞠内共同墓地)内容 朱鞠内共同墓地遺骨発掘調査(新たに4体を発掘) 講義 ・徐 勝(立命館大)『民衆の歴史を発掘する』 ・姜萬吉(高麗大)『侵略戦争期日本に動員された朝鮮人労働者』・森田俊男(国際平和教育研究会)『真実を踏まえての相互理解』遺骨発掘責任者:小野寺正巳(拓殖大北海道短大)、朴善周(忠北大) ‘98冬の日韓共同ワークショップ期間 1998年2月場所 北海道雨竜郡幌加内町朱鞠内 旧光顕寺報告:宋基燦(漢陽大院生)『97年発掘遺骨調査報告』 / 結城佳子(独協大) / 金光敏(民族教育促進協議会) ‘98夏の日韓共同ワークショップ −過去を心に刻み共に未来をみつめるために−期間 1998年8月14日〜21日場所 ソウルほか(会場:漢陽大学校ソウルキャンパス、梨花女子大学校コサリ修練院)内容 テーマ別フィールドワーク・強制連行体験者・遺族聞き取り調査(4班編成)  ・元「日本軍」慰安婦ハルモニの聞き取り調査・植民地時代の遺構・空間の再配置調査  ・日韓の文化浸透と市民意識調査日韓共同シンポジウム 森田俊男(国際平和教育研究会)・姜萬吉(高麗大)・吉田康彦(埼玉大) (漢陽大白南センター) 分科会:「日韓の強制連行・近代史研究」ほか、4分科会 コーディネーター:鄭炳浩(漢陽大)、鄭有盛(西江大)、李起範(淑明女子大) ‘99冬の日韓共同ワークショップ期間 1999年2月場所 北海道雨竜郡幌加内町朱鞠内 旧光顕寺講義:吉田康彦(埼玉大) 『北朝鮮人道支援と東アジアの平和創造』 ‘99夏の日韓共同ワークショップ −共に生きる 真実に感じる 未来に−期間 1999年8月17日〜21日場所 大阪府(会場:大阪市矢田地区青少年会館ほか)内容 テーマ別フィールドワーク・強制連行・強制労働(西宮甲陽園、高槻タチソ、ほか)  ・戦後補償と在日(京都ウトロ地区、姜富中さん戦後補償裁判ほか)  ・女性と人権(在日社会における女性問題、被差別部落と在日、障害者問題ほか)  ・大阪の戦争遺跡調査(奈良屯ヅル房、大阪市内地下防空壕[生玉公園]ほか)  ・民族教育(朝鮮学校・韓国学園訪問、公立学校の民族学級ほか)  ・南北分断(民族団体と在日、ワンコリアフェスティバル、統一マダンほか)     シンポジウム 基調講演:尹健次(神奈川大) 『日韓のつながりを変えるものとは』 / 殿平善彦(空知民衆史講座)  ・鄭雅英(民族講師)・鄭炳浩(漢陽大・南北オッケドンム) / コーディネーター:姜孝裕(民族教育促進協議会) ‘00冬の日韓共同ワークショップ期間 2000年2月場所 北海道雨竜郡幌加内町朱鞠内 旧光顕寺講義: 慧 眞師(「日本軍」慰安婦歴史館長) 『ナヌムの家と歴史館』    鄭炳浩(漢陽大) 『南北オッケドンムと北の子どもたち』 ‘00夏の日韓共同ワークショップ −共に生きる 真実に感じる 未来に−期間 2000年8月16日〜20日場所 韓国・ソウル(会場:ソウル市立ボラメ公園青少年修練館ほか)内容 テーマ別フィールドワーク ・強制連行・強制労働追跡調査(慶尚北道達城郡、高霊郡、星州郡、大邸市) ・「日本軍」慰安婦問題調査(ナヌムの家・邸対協ほか) ・市民意識調査(ソウル市内ほか) ・駐韓米軍基地実態調査(梅香里、米軍犯罪根絶運動本部)日韓共同シンポジウム 報告者 岡田有生「日本の保守化と私の生」 / 金和子(大阪府立大)「私の本名宣言」金秀幸「私のアイデンティティ」 /金栄美(在日3世)「韓国で在日同胞として生きていくということ」 /宮内秋緒(駐韓米軍犯罪根絶運動本部)「米軍基地と人権」 /金?鎬(西江大)「ベトナム戦韓国軍の良民虐殺を考える」姜守幸(民族講師)「大阪から見る南北頂上会談」 ‘01冬の日韓共同ワークショップ期間 2001年2月場所 北海道雨竜郡幌加内町朱鞠内 旧光顕寺内容 笠木透ミニコンサートなど
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